1 2004年 05月 28日
須田泰成(すだ やすなり)/1968年、大阪府生まれ。 コメディライター&プロデューサー。 TV/ラジオのコメディ脚本作品多数。 著書に「モンティ・パイソン大全」(洋泉社) 「ファンキー・ビジネス」(博報堂) 「空飛ぶモンティ・パイソン第1シリーズ」(イーストプレス) 「『デスパレードな妻たち』と『アリーmyラブ』を観る」(太田出版) 「笑論」(バジリコ)、「兵庫のおじさん語録」(講談社)など。 有限会社・大日本生ゲノムを率いて、 TV/ラジオ/ネット/ケータイ/出版などで、コメディ・コンテンツ多数を製作・展開中。 2004年には、「Monty Python's Flying Circus」や「Mr.Bean」などが 世界にでるきっかけとなったスイスのコンテンツ・フェス Golden Rose FestivalのSocial Awareness Award に 「Yellow Subliminal」(主演・松尾貴史)がノミネート。 Yahoo!検索数ナンバーワン記録ブラック3DCGアニメ「兵庫のおじさん」の脚本を担当。 講談社「KING」に「兵庫のおじさんの人生相談」を連載中。 DVDは、コロムビアミュージックエンタテインメントから好評発売中。 NTTドコモの公式コメディ専門チャンネル 「マイコメ(http://www.mycome.jp ※携帯・PC共に)」では、 おバカ&ゆるい系ショート・コメディ多数をプロデュース。 世田谷区・経堂界隈のコミュニティ・サイト「経堂系ドットコム」を運営し、 地域のコモンズ作りも積極的に行う他、 下北沢のカフェ&カルチャージャミングスポット cafe スロコメ(slow comedy factory)を運営。 この大変な21世紀を人がゆるーく いい笑いに恵まれて生きるには どうすればいいのかを考え、実践するアクティビスト。 有限会社・大日本生ゲノムは、こちら!(←クリック!) ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-28 02:13
| プロフィール
2004年 05月 22日
大阪を離れて暮らしていると、自分の大阪人ネスみたいなものが、 薄まっていると感じる時がある。 たまに大阪に戻った時、そんな瞬間は、テロの衝撃をもってやってくる。 先日、出張のついでに実家に立ち寄った。 最寄駅は京阪電車の河内磐船(かわちいわふね)。 地下にある改札を出て、階段を昇り地上へ。 すると、そこにあったのが、「たこやき水族館」と書かれた看板。 頭の中が?だらけになって、思わず店内を覗くと‥‥‥。 店の中には、金魚やら熱帯魚やらが泳ぐ水槽が、至る所に置かれている。 「なるほど。。。これで水族館なわけか。。。」と、 ふと、人の気配を感じて、右手を見ると、水槽の置にカウンター。 その上で、茶髪の女性が、一生懸命たこ焼きを焼いている。 「なるほど。。。これで たこ焼き なわけか。。。」 合わせて「たこ焼き水族館」。。。 「どうしよう‥‥‥」という言葉が、ぼくの心に浮かび上がってきた。 「たこ焼き注文してみようか、やめとこか‥‥‥」 次の瞬間、出入り口のボーダーライン上で躊躇するぼくの左目の網膜に あるモノが飛び込んできた。 深い青・黄・青・黄の三色が印象的な国旗だった。 ちなみに、その国は、アフリカのチャド。 たこやき+水族館=たこやき水族館 という足し算には理解できたけど、 たこやき水族館+チャド国旗=??? この答えは、さすがにわからなかった。 「いま、この店に入るとヤバイ」と直感したぼくは、瞬時に踵を返した。 この感じは一体なんなのか? ここには、きっと何かあるに違いないことだけはわかった。 時間をかけても突き詰めてみようと思いました。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-22 02:47
| 離散する大阪人
2004年 05月 09日
「ズラはホラーか?コメディか?」で、恐怖と笑いの関係性について書いたら、 京都の撮影所で働いていた友人から、刺激的なメールが届きました。 それは、撮影所で時代劇用のカツラを担当する結髪さんのエピソード。 ある時、担当したのが、業界内では有名なカツラ男優だった。 が、もちろんカミングアウトなどしていない。 本人は、カツラの事実は周囲にバレていないと思い込んでいる。 ‥‥‥結髪さんは、緊張した。 その日の仕事は、その男優に時代劇用のカツラを被せることだったから。 それも、かなりの大物だから、なにかあったらクビ間違いなし。 ‥‥‥結髪さんの心臓は、バクバク乱打した。 とりあえず結髪さんは、いつものように、時代劇の男性の髪型には欠かせない 羽二重を男優の頭に被せる作業に入った。 羽二重とは、いわゆるハゲズラのことである。 ‥‥‥結髪さんは、自分が開始した作業の複雑さに目眩がした。 なぜなら、ハゲを隠すためにカツラを頭に載せている人の頭にカツラを載せる ために、新たなハゲを作っているのである。 「どう考えても、下段のカツラは不要だろう」と思い悩みながら、それでも、 結髪さんは、生活の糧を得るために羽二重を貼り続けた。 心の中は恐怖感でいっぱいだったに違いない。 しかし、この話を他人事として聞くと、面白くて仕方がない。 ここにも恐怖と笑いの関係が見事に現れている。 このカツラのエピソードには、不条理の笑いの謎を解くヒントも含まれている。これは、まだ仮説だが、不条理の笑いの根っ子には、なんらかの偽りが存在する のではないだろうか? おいおい、実例と供に検証していきたい。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-09 02:32
| コメディの技術
2004年 05月 07日
世田谷区・経堂エリアで「癒し」と「笑い」を同時に体験したいと思ったら、 迷うことなく銭湯に直行して欲しい。 ここ数年、農大通りを少し入った上総湯や下高井戸の開楽湯など、幾つもの 湯が、時代の流れで悲しくも廃業してしまったけど、すずらん通りには、 ラドン温泉の塩原湯、下高井戸の松原高校脇には自前の温泉が人気の月見湯、 まだまだ地元の商店主や学生で賑わう銭湯が健在。 そして、これらの銭湯は、知られざる笑いの殿堂なのだった。 昨日、遭遇したのは、70代半ばとおぼしい男性2人と50代くらいの男性 1人の2対1のトークバトルだった。場所は、脱衣所。 50代の男性(以下、彼を中年Aとします)は、なにかにつけて若さと経済力を誇示して、他の二人(以下、老年B&Cとします)を圧倒していた。 中年Aは、なんだか大人げのない勝ち気な性格のようで、「海外旅行に行った」とか「フランスのワインを飲んだ」とか、「どうだ?」と言う自慢モードは、 傍目に見ていても激しいものがあった。おそらく年金暮らしの老年B&Cは、 なんだかオモシロクないようだった。まあ、考えれば、無理もない、中年Aは、下手したら息子のような年の若僧なのだ。彼らにすれば。 脱衣所で涼んだり着替えたりしている人の中には、その一方的なコトバの老人 虐待に気付いて、中年Aを嫌な目で見る人もいた。 しかし、形勢は意外なカタチで逆転された。 それは、老年Bが、自らの病の話をしはじめた時だった。 老年B「話は変わりますが、先日、医者で前立腺肥大が気になると言われ ましてね‥‥」 老年C「わたしなんか、この7、8年クスリ飲んでますよ」 老年B「おたくも?」 老年C「なんでも聞いてください。本もいっぱい持ってます」 老年B「ほう。じゃ先輩だ!」 と、まるで戦友のように盛り上がる二人がイニシアティブを取るのに猛然と 反発するように、中年Aが、子供のように割って入った。 中年A「ぼくも、この間、胆石とったんですよ」 が、老年B&Cのタッグは、微動だにしない鉄壁だった。 老年C「胆石?ほう‥‥あのレーザーで散らして治るやつですな」 老年B「切らずに治る病気は病気じゃない‥‥‥」 老年C「昔は、ビールを飲んでションベンと一緒にカランと金隠しに転がして 出したもんです」 老年B「あれは病気のうちに入りませんな」 中年A「‥‥‥‥」 漫画なら「ギャフン!」という台詞を口から伸ばした吹き出しに書き込みたい くらい不意をつかれた唖然顔をした中年Aだったが、よせばいいのに、どういうわけなのか、また勝負を仕掛けた。 中年A「でも、ぼくも言われました。病院で。前立腺肥大は気をつけろって」 老年C「前立線の肥大はね。男なら50を越えれば誰でもそうなのよ。 わたしなんか、クスリを飲めと言われるようになる前でも、かなり 大きくなってましたからな。60を過ぎた頃には、こうやって立って オシッコしてるでしょ。勢いよく出てる時でも、ゆくっり膝を曲げて しゃがむとだね。なぜかオシッコが止まるんです!」 中年A「はっ?」 老年C「なぜかわかりますかな?」 中年A「いえ‥‥‥」 老年B「ああっ‥‥前立腺が圧迫されてるんですな!」 老年C「その通り!さすが!」 いまや老年B&Cは、勝ち誇った目で中年Aを眺めている。しかし、中年Aは、 まだ自分の負けを認めたくなかったらしい。 中年A「知り合いに前立腺の手術をした人がいます‥‥」 が、ここから老年コンビは、畳み掛けるようなラッシュを見せた。 老年B「前立腺の手術?そんなもの取ってしまえば終わりでしょう! わたしの昔の同僚には、前立腺肥大から前立腺癌になって、それが、 膀胱に転移して、もうほんとそっくり取っちゃった人がいる。 膀胱がないんですからなぁ。オシッコなんか、腎臓から直接ビニールの 管を通して出てくるんですよ。これが。」 老年C「ほう〜!」 中年A「‥‥‥‥」 ノックアウト。中年Aの状態を語るのに、これ以上ふさわしい言葉はなかった。 その一部始終が気になっていたぼくを含めた数名は、みんな、ご贔屓のプロ 野球チームがサヨナラ逆転満塁ホームランで勝ったような爽やかな表情をして いた。この健康ブームのご時勢なのに、世間の価値観が通じない。 まさに「笑いのユートピア」がそこにあると、思わざるをえなかった。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-07 05:03
| コミュニティ論
2004年 05月 06日
「笑いと恐怖は紙一重」とは、非常に本質を突いた表現だと思う。 『洗礼』や『漂流教室』のようなホラー漫画の第一人者でありながら、 『まことちゃん』のような超一流のギャグ漫画も書いてしまう楳図かずおは、 「笑いと恐怖は実は似ている。いや、恐怖から見れば、笑いは恐怖の一ジャンルといってもいいかもしれない」(『恐怖への招待』河出書房新社/刊)と言って いるほどなのだ。 笑いと恐怖。その似て非なるものを分ける一枚の紙は、一体どんなものなのか? 知り合いが勤めていた会社に秀逸なエピソードが伝わっている。 その会社は、全国的にも割と名前の通った企業。 数年前のこと、そこにAさんという役員さんがいた。叩き上げの実力派で、 現場への影響力は絶大。次期社長の噂も高く、たまに役員室から現場社員が働く フロアに出てくると、誰もがピリピリ緊張して、直立不動となるほどだった。 港区に一軒家を持ち、サラリーマンとしては最高の自由を手にしたAさん。 そんなAさんにも、一点だけ不自由なことがあった。 Aさんは「ズラ」だったのだ。 Aさんが「ズラ」であることは、社内では誰もが知る事実だった。 しかし、やっかいなことに、Aさんは、「知るは絶対に自分のみ!」と信じて疑っていなかった。 そこが社員の恐怖の始まりだった。 毎年、Aさんは、衣替えの時期になると、季節に合わせてズラを替えた。 そして、ズラをチェンジする前日になると、一日かけて本社の全フロアの すべての部署を訪れて、ズラの衣替えを不自然に思われないための特殊工作を 行うのだった。特殊工作は、かなり直球勝負だった。 その日に限り、Aさんは、普段なら一瞥もくれないような下っ端の社員たちにも 気さくに喋りかけるのだった。 「君、元気かね?ふむふむ。そうか?それにしても暑くなってきたね。 そろそろ‥‥衣替えの季節だね。あっ、そうだ。髪型も変えなくちゃいかん。 こう暑いとな‥‥‥さっぱりした髪型にしなきゃいかんな‥‥‥」 話しかけられた社員は、まるで地獄の責め苦にあっているようである。 ただでさえ、緊張を強いられる役員が自分に話しかけてくるのである。 しかも、「髪型‥‥髪型‥‥髪型」と、社内では最大級のタブーであるズラを 意識させるコトバを連発する。 「ズラのことを知らない振りをしなけりゃいけない」 「Aさんの髪の毛を前にして自然なリアクションをしなければいけない」 爆発秒読みのプレッシャーが体内を駆け巡る。心臓がバクバクと鳴り、手のひらに汗をかき、喉が乾き、もう倒れそうになる。 そんな時、Aさんは、とどめの一言を発するのです。 「さあ、わしも明日あたり散髪に行こうかな」‥‥‥と。 その一言を吐き出したAさんは「これで、こいつには、ズラの模様替えを怪しまれずに済むわい」と、心の内側で呟くのでしょうね。最後のコトバを言われた社員は、すんでのところで死刑執行が取り止めになった囚人のようになって、後は、Aさんが去るのを待ってへたり込むだけ。 そして、Aさんは、隣のセクションに行って、また同じ芝居を繰り返します。 もちろん、新しく捕まった社員は、頭の中クラクラしながら、恐怖のどん底で ズラのことを知らない演技をするのです。ズラが網膜に映っても、疑念を浮かべてはいけない。つまりは、自分に嘘をついているわけで、かなり辛い行為です。 少し長くなりましたが、たとえば、このようなエピソードでは、笑いと恐怖が 紙一重で隣り合っています。その違いは? エピソードの当事者の立場になると「ホラー体験」でしかないが、 エピソードの部外者の立場から見ると「コメディ体験」となる。 つまり、ある極端なエピソードを他人事と思えるか思えないかが、笑いと恐怖をわけるポイントとなっているのです。 それは、道で滑って転んだ人を見ると「オカシク」思うのと同じことです。 このような「笑いと恐怖」の類似点について考えると、コメディについて深く 考えるきっかけになるのです。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-06 01:48
| コメディの技術
2004年 05月 05日
友人の有木宏二が電話でオモシロイことを言っていた。 彼は、ぼくが大阪市内の高校に通っていた頃のクラスメートで、現在、美術館の キュレーターをしながらユダヤ美学の研究をしている。京大の大学院で『離散するユダヤ人』(岩波新書)などの著書のある小岸 昭教授に師事してから、実に 興味深い研究旅行をしては、いろんな話を聞かせてくれる。ちなみに、マルクス 兄弟やアインシュタインのユーモアの源泉である「イーディッシュの笑い」に ついて教えてくれたのは、彼である。 この間は、小岸先生と一緒に中国の海府を訪れて 、シルクロードを辿って中国にやってきたユダヤ人の末裔に会ってきたのだという。残っているのは、たった 2家族。シナゴーグ(教会)もなく、教典もなく、もちろん権力を持つ聖職者も いない。信仰しているユダヤ教の今のカタチは、単に彼らの心の中に宿る暮らしの規範だけ。宗教のイカツイ感じの角がすっかり取れて丸くなったオバアちゃん の知恵に満ちた言い伝えという感じになっているのだという。そして、その事実にむしろ宗教の可能性が潜んでいるのではないか?と。 そんな話を聞きながら、ぼくが連想したのは、「離散する大阪人」ということ だった。東京に生きていると、実に大阪人が多いことに気付く、話してみると、 みんな大阪時代を懐かしみ、「仕事があれば帰りたい」などという。 が、帰らない。ぼく自身も、土曜日の昼下がり、ホットプレートに乗った焼そばを食べながらTVの吉本新喜劇を笑って見ていた小学生の頃、こんな幸せが一生大人になっても続くもんだと思っていた。大人になって、仕事をしたり結婚して子供ができたりしても、この呑気な感じが続くもんだと思っていた。 ところが、である。大人になってからの大阪は、ぼくがしたい仕事をするには 不向きな街になっていた。手塚治虫や筒井康隆や多くの個性的な書き手を輩出し続けているにも関わらず出版業は不毛。ミュージシャンを生み続ける土壌があるのに、これといった音楽レーベルがない。吉本興業があるにも関わらず、TV番組の制作の中心は東京。かつては各種産業の中心地だったのに、80年代から本社の東京移転が進み、広告業界も一部を除いて元気がなくなった。デジタルの時代に突入しても、ソフト産業の盛り上がりには、欠けるといわざるをえない。 70年代の大阪は、テレビもラジオも大阪発のものが多く、『プレイガイド・ジャーナル』のようなカウンター・カルチャー色の強い雑誌もあった。小説家もミュージシャンも、関西に住みながら全国区で活躍する人が多かった。 要は「この街に住みながら面白い人生が重ねられる感じ」が濃厚にあったのだ。 それが、しかし、バブルの前後を境に状況は大きく変わってしまった。 そして、クリエイティブな業界を中心に大阪人の離散が始まったのだ。 人の離散は、文化や遺伝子の離散でもある。 60年代〜70年代にかけての、オイルショックなどを除けば、いまのような 先行き不安感はなく、安定した冷戦構造に守られていた頃の呑気な独特の大阪のノリ、アホと呼ばれて何故か嬉しくなる少数民族の遺伝子は、有形・無形問わず 今まさに、まき散らされている。 離散する大阪人。このコトバを追うと、なにか深い発見があるような気がする。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-05 18:35
| 離散する大阪人
2004年 05月 04日
昨年の8月から、有限会社 大日本生ゲノムという会社を経営している。 コメディ・クリエーティブ・ファクトリーというサブタイトルのようなものを 冠しているように、ぼくがプロデュースを行う仕事の核には、コメディがある。 ぼくにとって、コメディとは、自分の身の回りから世界の隅々にまで、もっと もっと必要なもの、それでいて、まだまだ足りないもの。同時にとらえどころ がない不思議なもの。もっと関わりたい&考えたいもの。 それで、コメディを売り物にして生業にすることになったわけだ。 いま構築を急いでいるのは、コメディのコンテンツ・ビジネスを柱の1つとして 育てること。 現在制作中なのが、5分間にちょっとシュールなCGギャグ・アニメが詰まった『イエロー・サブリミナル』(タカランドTV)。これは、「リカちゃん」や 「チョロQ」などのオモチャのタカラのグループ企業、タカラモバイル・エンタテインメントの理解と出資を得て完全パッケージとして共同製作させていただいたもの。 5月中には全26本を納品予定。夏以降には、DVD化や各国のアニメやコメディのコンテンツ・フェスティバルに積極的に出品する予定。 その他にも、いま、複数のコンテンツをプロジェクト化する作業を進めている。 どのコンテンツにも共通するのが、「モンティ・パイソン」などにも特徴的な ように、世界を画一的ではなく、多様性に満ちた場所とする「笑いの遺伝子」が 含まれていること。 企業理念は、コメディによって世界を多様性に満ちた場所にすることで、 社会に貢献すること。 まあ、こんな感じに書くと、堅くて具体性もありませんが、これから書き続ける 雑記は、硬軟とりまぜながら、ぼくが進めるコメディ・ビジネスについての イメージを実感できるように心掛けたいと思います。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-04 18:47
2004年 05月 03日
久しぶりの土地を訪れるという行為は、コメディ的だと思う。 4月の中旬、出張でロンドンを訪れた時、はじめて海外でも使える ケータイ電話を持っていった。そのおかげで‥‥‥‥‥ 赤い二階建てバスに追い抜かれながら舗道を歩いている時などに、ふと、 「うちのネコ元気かな?」などと思い浮かんだら、その場ですぐに電話を 掛けてネコの鳴き声を聞けるという体験を初めてしたのだった。 それで蘇って来たのは、ケータイ電話の有り難みというか、ケータイ電話を 初めて使った時の感動だった。その感覚は、さらに遡って、ロンドンに住んで いた10年前のことに辿り着いた。その頃は、日本とのやりとりは、まだ手紙を 多用していた。仕事などだとFAX。電話も現在のような格安サービスはなく、 おそるおそる使ってたっけ。 要するに、「今の自分にとって当たり前だと思えること」なんて、案外、 少し時間を遡ってみると、歴史の浅い、新参者だったりするのだ。 そんな感じのものってケータイ以外にどんなものがあるだろう。 たとえば‥‥‥ミネラル・ウォーター。いまではエビアンとか何とかのおいしい水とか、ペットボトルに詰められたの飲料水をコンビ二などで買って飲むのは、当たり前になっているけど、20年ほど前、ぼくが高校生だった頃は、「水に わざわざ金を払うなんて!」考えられないことだった。学校には麦茶を詰めた 水筒を持っていっていた。 そんなことの事例を挙げればきりがないけど、最近とてもショッキングなことに 気がついた。 それは‥‥‥いつの間にか「戦争」が身近になっているということだった。 15年前、1989年、旧・東ヨーロッパの共産主義国家が次々と民主化して、 ベルリンの壁が崩れた頃、ぼくは大阪でTVの仕事を始めたばかりだったけど、なんとなく「この先、世の中平和になる」という楽観ムードを感じながら生きて いたように記憶している。もっとも、その頃は、バブル経済のピークで、景気が良過ぎたせいもあって、あまり悲観的なことを考えるムードが世の中になかったせいもあると思うけど。 しかし、驚きなのが、それから15年。そんな予想とは真逆なくらい、世の中の戦争ムードが濃くなっている。 冷戦構造が安全保障となっていた地域における民族間紛争、グローバリズムと ファンダメンタリズム(原理主義)の摩擦が原因となる戦争やテロなど、 世界は、戦争のショーケースとなってしまった。 「この温泉は万病に効く!」と言われていったのに、泉質があわなくて、 かえって満身創痍のボロボロ状態になってしまったような「え〜っ!!!」と いう感じなのだ。 戦争が身近に感じられるようになった理由には、戦争の頻発以外に、メディア 状況の変化もある。CNNやアルジャジーラなどのニュース・チャンネルが、戦場をリアル・タイムで伝えるようになるなんて、1992年の第一次湾岸戦争以前には、筒井康隆の小説の中にしかないようなSF的なものだったから。 2001年の9月11日に、ニューヨーク貿易センタービルにジャンボ機が 突っ込んで倒壊することが現実に起こるなんて、なかなか想像できるもんじゃ なかったわけだし‥‥‥。 21世紀は、そんなメディアの有り様も含めて、また新しい戦争の時代となっている気がしてならない。 となると、世の中の映し鏡である「コメディ」も、また「戦争」なのではない だろうか?と、コメディを考えることに取り憑かれているぼくは思ってしまう。 このブログでは、「コメディ」と「戦争」を合わせて考えることも続けたい。 実は、「コメディ」と「戦争」は、すでに、いろいろせめぎあっている。 例の日本人3人がイラクの武装勢力に捕われた時、『AERA』の中吊り広告から駄洒落まじりの「1行コピー」が消えた。「金ちゃんのテポドーン‥‥‥‥と いってはダメ‥‥‥」などが割と好きで、毒のある社会派ネタを珍味に仕立てる腕のいい職人の存在に注目していたのに、「日本人が戦争に巻き込まれた」という毒には手も足も出なかったらしい。なんだかまるで、信頼している割烹の大将に「実は、トラフグ怖くてさばけません(涙)」と告白されたような‥トホホな感じだった。もちろん、戦争と笑いの共存が簡単なはずはない。しかし、そんな事態に出くわすと、猛毒ネタを笑いに変える本物の職人仕事に触れたくなるのも人情だ。誰かいないか?本物は?私の頭に真っ先に思い浮かんだのは、伝説のスタンダップ・コメディアン、レニー・ブルースだった。 1966年に40代前半の若さでドラッグが原因で逝ったレニー・ブルースの人と笑いは、ダスティン・ホフマン主演の映画『レニー』に濃密に描かれている。 笑いを求めて集まった観客を獲物を捕らえた猛禽類のように眺めるレニーのシルエットが逆光のスポットライトの中に浮かび上がる 冒頭部分は圧倒的。レニーの遺伝子が、後に夭折するジミ・ヘンやジョン・ベルーシにも受け継がれているのがわかった。 1923年、三島由紀夫より2年前にニューヨークの下町ブルックリンでユダヤ人の母親から産まれたレニーは、戦争を笑い続けたコメディアンだった。アメリカ海軍の戦艦ブルックリン号の砲兵助手として19歳から第二次大戦に参加。北アフリカ戦線でナチスドイツ軍との激戦に巻き込まれ、数え切れないほどの死と遭遇した。3年目にドイツ軍の猛攻によりナポリ湾に閉じ込められた時、レニーは、最初のカウンター・カルチャー的パフォーマンスを試みる。それは、わざと女性兵士のコスプレをして艦上を練り歩くことだった。結果は、精神鑑定を経て除隊に成功。ニューヨークに舞い戻り、コメディアンとなるが、平和を期待して舞い戻った戦後のアメリカが、彼には、笑い飛ばすべき対象の余りにも多い戦場に見えた。キング牧師やマルコムXなどの黒人の地位向上を巡る戦争。自由を求める戦後派の若い世代と保守的な父親・母親の世代との戦争。そして、既に序章が準備されていたベトナムでの戦争。60年代の初頭、熟練の喋り手となっていたレニーは、当然のように戦争をネタにした。「オレは自分のガキにポルノを見せる。だって、ポルノには暴力シーンが出てこない。聞こえてくるのも、気持ちイイ声ばかりだ」と、戦争の温床となる暴力賛美の風潮を笑った。文章で見るとお固い説教のようだが、レニーの繰り出す言葉の連打は、紡がれ重ねられ、矛盾に満ちた時代を生きる観客の気持ちを笑いで解き放つフリー・ジャズだった。 レニー・ブルースの遺伝子が、21世紀に残っているとしたら、それはどんな 進化を遂げ、どんなカタチで現代に吹き出すことが可能なのかについて考え続けたい。もちろん、思いっきり笑わせてくれるフリー・ジャズ的なスタイルがいいな。 ▲
by yasunari_suda
| 2004-05-03 19:16
| 戦争と笑い
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