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カテゴリ:離散する大阪人( 4 )


2005年 12月 20日

年末の離散する関西人

昨夜は、
mix 「経堂系コミュを活用する」を中心とした忘年会。
太郎さんに30人近く、いい雰囲気で盛り上がりました。
一時は、カウンターの中にまで参加者が押し寄せるほど
楽しかった!

が、宴もたけなわの12時前、
突然、先に帰宅した妻から電話が。
忘年会が楽しかったらしくテンションが上がった
うちの子が、ソファの上で猫と遊んでいるうちに、
一瞬の隙をつき、落下。
TV台の角で打ったらしく、口の中が血まみれだという。
急いで帰宅、すると、痛さのピークは過ぎたらしく、
ヌイグルミを持って駆け回っている。
が、大人の鼻血くらいの勢いで血のついたティッシュが、
幾つも散らばっている。
ひぇ〜っ! 
妻が大蔵の小児科のある救急医療センターに電話したら、
「検査した方がいいので、すぐに来てください」とのこと。
太郎に乳母車を取りに戻り、ちょうどお開きだったので、
みなさんに挨拶をして、また帰宅。
すぐ病院へ。

最近、新しくなったという病院は、
昔のような暗〜いジメジメした、
経堂でいうと児玉病院のような、
待ち合わせにいるだけで、病気になりそうな、
そんな雰囲気ではなく、
まるで、昔で言えば『ママとあそぼう ピンポンパン』の
スタジオのような楽しいインテリアに囲まれていた。

静かな夜だったけど、救急車が何台も駆け込んでくる。
初め看護士さんに見てもらってから、
待つこと2時間、
診察室に通されると若い爽やかな感じの男のお医者さん。
これこれこうで、と妻とぼくが状況を説明すると、
子供の様子を観察しながら
真剣な面持ちで話を聞かれた後、
お医者さんは、口を開きかけた、
次の瞬間に出てくる言葉を絶対に聞き漏らすまいと
真剣に耳を傾ける私たち。
そんな先生の最初の言葉は、

先生「 関西の方ですか?

えっ?と思いながら、

我々「ええ、二人ともそうですけど」

と、続ける私たち。
言葉のキャッチボールが始まった。

先生「どちらですか?」
我々「わたしは天王寺の近くです」
先生「へぇ〜」
私「北田辺やんな?」
妻「どちらですか?」
先生「神戸です。でも、親は住吉(区)なんです」
妻「ご近所ですね〜」
全員「あははははは‥‥‥あははははは‥‥‥‥」
私「 この子、生まれたん、新世界ですよ 
  通天閣の200m北側

妻「ほんまなんです」
全員「あははははは‥‥‥あははははは‥‥‥‥」
私「愛染橋病院です」
全員「あははははは‥‥‥あははははは‥‥‥‥」

妙な関西ノリのふわふわ感が病室中に充満していた。

子供の検診の結果は、出血は完全に止まっているし、
傷も、前歯の上以外にはないし、大したことがないとのこと。
ただ、前歯の一本が少しグラついているので、
時間が経っても安定しないようだったら、
歯医者に行くように勧められる。
たぶん大丈夫だが、最悪は、永久歯が生える6〜7歳まで、
すきっ歯か、前歯一本なしっ子になるかもしれない。

が、関西ノリに包まれていた私たち夫婦は、
「それも可愛いな〜、
 そうなったら吉本決定やな〜」とか怒られそうなことを
いいながら、帰宅したのでした。

忘年会と、二次会の関西ナイト。 
ゆる〜く盛り上がった夜でした。
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by yasunari_suda | 2005-12-20 17:22 | 離散する大阪人
2005年 12月 06日

親友が渾身の一冊を書いた

事務所で仕事をしていると、妻から弾んだ声の電話。
「すごいものが届いた!」と。
帰宅すると、高校時代からの親友の著書が届いていた。
5年前に那須から会津、安達太良山周辺にかけて、
圧倒的な紅葉に包まれながら温泉と蕎麦屋や山のレストランを巡り、
ドライブした時に書きはじめていると聞いていた。
レコンキスタ後の時代のスペイン(イベリア半島)に暮らし、
その多くが海外に生命の危険を感じて移動した改宗派ユダヤ人=マラーノの末裔、
そのうちの一人、西インド諸島生まれの印象派画家ピサロの物語。
「かなり、こだわっている」ということだったが、これはスゴイ。
これぞ、仕事だ!
まず表紙を見て、そして、目次へ、頁をめくってみると、
『逝きし世の面影』を初めて手に取った時のような深いものに包まれた。
まだ読む前ではあるが、
美術史的な成果(もちろん、ぼくは深くは知りませんが)だけではなく、
この書籍には、
自分の目やメディアを通じて感じられる歴史を懐疑的に透視するセンスや視点と、
メディアや政財界人の煽動によってアメリカ化すると言われる現在の
ニッポンの風景をも、また、懐疑的に透視するセンスや視点など、
21世紀をクリエーティブに生きるために必要な生きた情報も含まれているような、
かなり静かな興奮を与えてくれる一冊であることが伝わってきた。
「おめでとう」というひと言では言い尽くせない感慨というか感動というか、
生きていると良いことがあるなという深い気持ちがある。

10代後半からハタチくらいの頃、
一緒に日雇いのアルバイトをして貰った金で、
まだ風情のあった早稲田の古本屋を巡ったり、
中井と新井薬師の間の四畳半のアパートで
得体の知れない安いウイスキーを飲んで騒いだり、
下落合のファミレスでコーヒー一杯で
朝まで澁澤龍彦の話をしたり、
お互いが嫌なバイトを辞める際に「バイクで事故って」とか嘘の電話を
掛けて助け合ったり、
250ccのバイク一台で引っ越しを手伝ってもらったり、
いろんな思い出が蘇る。書き尽くせない。
長電話が主なコミュニケーション手段となった20代以降も色々あった。
やがて、温泉を巡る家族ぐるみの付き合いへ。
会話の内容も、若い時代のいま振り返ると青い微笑ましいものから、
会う度に濃い熟成度の高いものになっていたような気がする。
これまでに彼が書いた完成度の高い論文も読んできたけど、
こういう進化系を手に取ると、
思わず柄にもなく「相田みつを」みたいなことを言ってしまいそうである。

人生だなぁ        なんて

『ピサロ/砂の記憶』(有木宏二・著/人文書館)

ちなみに、著者近影の撮影は、うちの妻。
著者が戯れている足の悪い小さなハトは、
うちの初代・愛娘「ポーちゃん」です。
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by yasunari_suda | 2005-12-06 12:40 | 離散する大阪人
2004年 05月 22日

××××水族館(その1)

大阪を離れて暮らしていると、自分の大阪人ネスみたいなものが、
薄まっていると感じる時がある。
たまに大阪に戻った時、そんな瞬間は、テロの衝撃をもってやってくる。

先日、出張のついでに実家に立ち寄った。
最寄駅は京阪電車の河内磐船(かわちいわふね)。
地下にある改札を出て、階段を昇り地上へ。
すると、そこにあったのが、「たこやき水族館」と書かれた看板。
頭の中が?だらけになって、思わず店内を覗くと‥‥‥。
店の中には、金魚やら熱帯魚やらが泳ぐ水槽が、至る所に置かれている。
「なるほど。。。これで水族館なわけか。。。」と、
ふと、人の気配を感じて、右手を見ると、水槽の置にカウンター。
その上で、茶髪の女性が、一生懸命たこ焼きを焼いている。
「なるほど。。。これで たこ焼き なわけか。。。」
合わせて「たこ焼き水族館」。。。
「どうしよう‥‥‥」という言葉が、ぼくの心に浮かび上がってきた。
「たこ焼き注文してみようか、やめとこか‥‥‥」
次の瞬間、出入り口のボーダーライン上で躊躇するぼくの左目の網膜に
あるモノが飛び込んできた。
深い青・黄・青・黄の三色が印象的な国旗だった。
ちなみに、その国は、アフリカのチャド。
たこやき+水族館=たこやき水族館 という足し算には理解できたけど、
たこやき水族館+チャド国旗=???  
この答えは、さすがにわからなかった。
「いま、この店に入るとヤバイ」と直感したぼくは、瞬時に踵を返した。
この感じは一体なんなのか?
ここには、きっと何かあるに違いないことだけはわかった。
時間をかけても突き詰めてみようと思いました。
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by yasunari_suda | 2004-05-22 02:47 | 離散する大阪人
2004年 05月 05日

アホと呼ばれて何故か嬉しくなる少数民族のディアスポラ

友人の有木宏二が電話でオモシロイことを言っていた。
彼は、ぼくが大阪市内の高校に通っていた頃のクラスメートで、現在、美術館の
キュレーターをしながらユダヤ美学の研究をしている。京大の大学院で『離散するユダヤ人』(岩波新書)などの著書のある小岸 昭教授に師事してから、実に
興味深い研究旅行をしては、いろんな話を聞かせてくれる。ちなみに、マルクス
兄弟やアインシュタインのユーモアの源泉である「イーディッシュの笑い」に
ついて教えてくれたのは、彼である。
この間は、小岸先生と一緒に中国の海府を訪れて 、シルクロードを辿って中国にやってきたユダヤ人の末裔に会ってきたのだという。残っているのは、たった
2家族。シナゴーグ(教会)もなく、教典もなく、もちろん権力を持つ聖職者も
いない。信仰しているユダヤ教の今のカタチは、単に彼らの心の中に宿る暮らしの規範だけ。宗教のイカツイ感じの角がすっかり取れて丸くなったオバアちゃん
の知恵に満ちた言い伝えという感じになっているのだという。そして、その事実にむしろ宗教の可能性が潜んでいるのではないか?と。
そんな話を聞きながら、ぼくが連想したのは、「離散する大阪人」ということ
だった。東京に生きていると、実に大阪人が多いことに気付く、話してみると、
みんな大阪時代を懐かしみ、「仕事があれば帰りたい」などという。
が、帰らない。ぼく自身も、土曜日の昼下がり、ホットプレートに乗った焼そばを食べながらTVの吉本新喜劇を笑って見ていた小学生の頃、こんな幸せが一生大人になっても続くもんだと思っていた。大人になって、仕事をしたり結婚して子供ができたりしても、この呑気な感じが続くもんだと思っていた。
ところが、である。大人になってからの大阪は、ぼくがしたい仕事をするには
不向きな街になっていた。手塚治虫や筒井康隆や多くの個性的な書き手を輩出し続けているにも関わらず出版業は不毛。ミュージシャンを生み続ける土壌があるのに、これといった音楽レーベルがない。吉本興業があるにも関わらず、TV番組の制作の中心は東京。かつては各種産業の中心地だったのに、80年代から本社の東京移転が進み、広告業界も一部を除いて元気がなくなった。デジタルの時代に突入しても、ソフト産業の盛り上がりには、欠けるといわざるをえない。
70年代の大阪は、テレビもラジオも大阪発のものが多く、『プレイガイド・ジャーナル』のようなカウンター・カルチャー色の強い雑誌もあった。小説家もミュージシャンも、関西に住みながら全国区で活躍する人が多かった。
要は「この街に住みながら面白い人生が重ねられる感じ」が濃厚にあったのだ。
それが、しかし、バブルの前後を境に状況は大きく変わってしまった。
そして、クリエイティブな業界を中心に大阪人の離散が始まったのだ。
人の離散は、文化や遺伝子の離散でもある。
60年代〜70年代にかけての、オイルショックなどを除けば、いまのような
先行き不安感はなく、安定した冷戦構造に守られていた頃の呑気な独特の大阪のノリ、アホと呼ばれて何故か嬉しくなる少数民族の遺伝子は、有形・無形問わず
今まさに、まき散らされている。
離散する大阪人。このコトバを追うと、なにか深い発見があるような気がする。
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by yasunari_suda | 2004-05-05 18:35 | 離散する大阪人