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yasunari suda's blog comedy

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2005年 05月 15日

浅草にグラスの買い出し


今度オープンする新宿ゴールデン街のお店のグラス類を買い出しに
ボスの妻と子供と家族3人で浅草の「創吉」へ。
妻がグラスっを選んでいる間、子供を乗せた乳母車をガラガラ鳴らしながら
浅草を散歩。日曜日なのでけっこうな人出。
仲店通りから一本東側にある手ぬぐいの店「ふじや」に行く。
昨年末から忙しく「えいや!」と浅草に行く暇がなかったので、
毎年買っている「暦」の手ぬぐいを入手しそびれていたのだ。
もう売り切れかな〜と思っていたら、倉庫から出してきてくださった。
よかった〜。そして、浅草をうろうろ。
世田谷・松原に本店があるスーパー・オオゼキが雷門の斜向かいに
出店していてビックリする。
スターバックスin浅草やマクドナルドin浅草とは微妙に異なる不思議な違和感。

いまでこそ山手と言われるものの、
30 〜40 年前までは単なる田舎だった世田谷発祥のスーパーが、
(もともとの山手は、いまの文京区など、山手線の内側にあった)
下町の中心地の1つ浅草に進出している光景の裏側には、
なにかそれなりの物語があるんじゃないかと思ったりしているのは、
まあぼくの癖みたいなものですが。
話はそれますが、下町と世田谷には、戦前から意外な人の交流があります。
その大きな流れの1つは、1923年の関東大震災の時、
被災して焼けだされた人の多くが、畑だらけで土地の余っていた世田谷に
移り住んできたそうです。
その名残は、千歳烏山や三軒茶屋、世田谷ではありませんが、武蔵小山あたりを
少し観察すれば、濃く残っているのがわかります。
元は畑のあぜ道だったような狭くて曲がりくねった道に何の区画整理もしないまま
小さな一軒家がひしめきあうように建っている一角は、世田谷にたくさんあります。
それらの多くは、関東大震災をきっかけに人が住むようになった土地だそうです。
もちろん経堂と関東大震災の関係も薄くはありません。
もう1つは、第二次世界大戦です。
連合軍のカーティス・ルメイ将軍による「絨毯爆撃」によって焼け野原と化した
下町を逃げ出して、畑だらけの田舎だった世田谷に住処と食糧を求めて
やってきた人々は、結構いたようです。
そして、その頃の経堂も、一部を除くと、風景も人も都市化されていない田舎でした。
実は、その辺りの情報を数年前から集め続けています。
いわば、世田谷の経堂を舞台にした民族大移動物語ですね。
ちなみに明治維新をきっかけに薩摩や長州から移動してきた人の流れも
経堂にはあったりします。

そんなことを考えながら、東京大空襲では凄惨な大量殺戮の現場となった
本所吾妻橋を乳母車を押しながら渡る。五月の風が気持ちいい。

子守り散歩をしている間に、いいグラスが見つかったので、蕎麦を食って、
経堂に戻る。子供のお風呂を手伝って、事務所へ。
契約書の作成やら笑いのコラム本の編集やらをする。
終わり間際のすずらん通りの塩原湯に滑り込みセーフ。
ラジウム温泉でひたすら半身浴を行い、体中の毛穴から疲れを出す。
大田尻家でビールを飲み、カウンターで楽しいおしゃべりをして帰宅。
久しぶりに、7時間連続の熟睡。
子供に起こされてお乳をあげている妻には悪いと夢の中で思いながらも
体も意識もどすんと深く眠りの中にいる。
ラジウム温泉と大田尻家パワーの効用に違いない。

by yasunari_suda | 2005-05-15 21:01 | コメディライター旅日記


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